僕は、歯ブラシの人である。 世の中には、たまに人のような意識を持って生まれる歯ブラシがある。 僕もそのひとつだ。僕のようなのを歯ブラシ界では「歯ブラシの人」と呼ぶ。 僕は生まれてすぐ出荷され、友枝町とかいう町のスーパーに並べられた。 同じ銘柄の歯ブラシと並べられるが、僕以外に意識のある者はない。 数日が経った。日用品ながら、なかなか売れるものではない。 ふと、1人の少女と目が合った。といっても目が合ったとわかるのは僕だけである。 少女はにっこりほほえんで僕の体をつかんでレジに持って行った。 そして僕は彼女の家に運ばれていったのである。 元気で、明朗な可愛い少女だ。僕は歯ブラシのくせにこの子、さくらちゃんに惚れた。 お父さんらしき大きな男の人がさくらちゃんに近づいてきた。 「さくらさん、ちゃんと買ってこられましたか?」 「うん、これお釣りね。可愛いの見つけてきたんだよ〜、ほらほら!」 さくらちゃんは、僕を買物袋から取り出して父親に見せびらかす。 父親の優しそうな目が近づく。さくらちゃんはいい家庭に育ってるんだな。 「じゃあ、これはちゃんと洗面台のところに置いておきましょうね。」 「はーい!」 僕は、洗面台の上の歯ブラシ立てにちょんと置かれた。 今日から僕はさくらちゃんの歯ブラシになるんだ。無いはずの心臓が高鳴った。 さくらちゃんである。 風呂に入った後か、寝間着を着て既に眠そうだ。 僕をひょいと摘み上げると、歯磨き粉をつけて速やかに口の中に入れた。 ゴシゴシと強い力で擦りつけられる。僕は痛がった。 「ぎゃー!いててててててててっ」 ふと、動きが止まった。そしてするっと口から出されたのである。 僕は仰天した。まさか、僕の痛みがわかったのか? 「今、痛いって叫んだよね?」 どうやら僕のことがわかるようである。僕はさくらちゃんに言った。 「僕が生きてることがわかるのか?」 さくらちゃんは、しっかりとうなずいた。僕は、呆気にとられた。 僕ら歯ブラシの人の意識が人間に伝わったなどという話は聞いたことがない。 それゆえ、僕の意識に感応したようだ。 「ごめんね、痛かったんだよね、あなたのこと使わない方がいいのかなぁ・・・。」 「そんなことはないよ、僕は歯ブラシだから、むしろ使ってくれた方が嬉しいよ。 ただ、さくらちゃんの磨き方は強すぎて僕には激しすぎるんだ。 僕が正しい歯の磨き方を教えてあげるから、ちゃんと磨くんだよ。」 さくらちゃんはうん!と元気に返事して僕の指導を聞きながら再び僕を口に含んだ。 今度は、僕の言うとおりに細かく優しく磨いてくれた。 さっきは痛かったのでわからなかったが、さくらちゃんの歯の滑らかな感触が伝わってくる。 えもいわれぬ快感に襲われた。 それにさくらちゃんの口の中はとても温かくて、湿潤で、天国のようだ。 時々当たる舌がまた柔らかくて、僕はとろけそうな気分だった。 そして唾を吐き出し、また僕を入れる。 歯磨き粉が薄まって、次第にさくらちゃんの唾本来の味を感じるようになる。 僕の昂奮度は最高潮に達している。 四方の奥歯を丹念に磨いて、さくらちゃんの全ての歯がつるつるになった。 僕はさくらちゃんにその旨を伝えて、口の外に出させる。 しっかりとうがいをさせて、さくらちゃんと僕のはじめての歯磨きは無事終了した。 さくらちゃんは「ありがとう、これからもよろしくね!」と言った。「こちらこそ」と返した。 しかし、いい持ち主に出会ったものである。 あんなにも可愛らしく、そして僕の心がわかる。 もしかしたら歯ブラシ一幸せかもしれない。いや、下手な人間よりもだろう。 ふと、人間だった頃のことを思い出すような気がした。多分碌でもない人生だったろう。 生まれ変わって、この上ない幸福を得た。そして僕の幸福はまさにこれからだ。 おわり |